【No.468】いよいよ総選挙!自公政治を退場させる絶好のチャンスいよいよ総選挙!/秩父困民党を巡る旅

 

 いよいよ総選挙!自公政治を退場させる絶好のチャンス

*選挙法の改悪で

10月15日に公示となった衆議院選挙。
私は公示前の1週間、宣伝カーを回し「『比例は日本共産党』」を拡げて下さい。
と訴えました。

選挙法の改悪で、選挙になったら選挙カー以外の拡声器を使っての宣伝が禁止されています。

本来ならば、選挙になったら、党の公約・政策を訴えて支持を拡げることを認められるのが、本来だと思います。

選挙中のチラシ配布にも大きな制限があります。
宣伝カーも、選挙区候補を立てないと2台が出せません。
出せるのは政治活動をするための政党カーだけ。

選挙区候補を降ろすということは、そうした大きなマイナスを飲み込むということです。

比例カーは候補者一人に付き1台なので、北陸信越ブロックでは2台の候補者カーとなります。(藤野さん・平さんが候補者)

佐久に来るのは、一日だけです。

憲法改悪を許さず最賃アップで時短を進める日本共産党を伸ばしてください。

 【比例候補の街頭演説】

ぜひ、お聞きください。
平あや子さんが訴えます。

 10月21日(月)午後だけ。

  • 14:10~小諸/カワチ薬局前
  • 15:00~浅間中西交差点
  • 16:20~佐久市跡部交差点

【田村智子委員長の訴え】

10・22(火)午後4時から上田駅前

「がんばれば、がんばっただけ結果につながる選挙」、周りの方に、「比例は日本共産党をお願いします」と声をかけてください。
北陸信越ブロックは比例の定数が減り、10議席に。
少なくても10%以上の得票率をめざします。
立科町でも比例票の獲得をめざします。

 【お願い】

  1. 「日本共産党をお願いします」と周りの方に拡げて下さい。今回の解散、総選挙のきっかけは政治資金報告書への記載漏れ=裏金つくりのからくりを暴いた赤旗新聞のスクープと国会議員団の追及によるもの。
  2. 今、法定ビラ+9月議会報告を全戸にポストイン中。ぜひ配布を手伝っていただけませんか。
  3. 選挙カンパにご協力をお願いします。

今週のパチリ

 地梨の実

 夫から「ジナシの実が沢山実っているよ」と言われてピンとこなかった私。
「ジナシって何?」「草ボケの実だよ」と言われ、ボケにも実がなるのか、どんなんだろう」と案内のまま見に行くと、真っ黄色な花梨の小さくしたような実でした。なんと花もまだ咲いています。
「秋のおやつに、土手に成っていたこの実を食べてね。酸っぱいんだよ」と。
昔の子どもは学校帰りにいろんなものを食べていた気がします。
私も桑の実や房スグリ、ちょっと渋いナワシログミ、アケビや山ブドウも。
昨日菜ないろ畑にアケビが登場。
さっそく買ってきて夫にも見せました。

10.6 秩父困民党をめぐる旅・・・農民が団結して武装蜂起、

明治の代に「生活守れ」と農民一揆…6,000人にも。

明治時代・世の圧政に抗して立ち上がった農民たち総選挙が迫る10月6日、佐久地域共産党後援会ではバスツアーを計画し、41名のバス一杯の参加者で埼玉県秩父にある困民党の記念館や終結した神社などをめぐりました。

私村田も後援会事務局として参加。
明治時代の世界恐慌による生糸相場の暴落により、生活に困窮した農民らが、高利貸しからお金を借りざるを得ず、その返済を巡って、支払い年限の延期や減額などを求め、郡役所や高利貸しを相手に懇願したが、全く受け入れられず「かくなる上は」と武装蜂起に立ち上がった事件です。

農民たちは、話し合いに話し合いを重ね、歯向かうものは極刑という厳しさを十分承知のうえで手に手に桑や鍬、火縄銃などを用意し「困民党」と名乗り、世直しを掲げて蜂起。
部落ごとにある高利貸の家を焼き討ちし、証文を焼き捨てました。
進むごとに加わる農民が増え、6千人にもなったそうですが、最初は警察、次には軍隊が出動し、最新兵器の前に鎮圧されます。
秩父から十国峠を越えて、北相木・南牧野辺山で潰えました。

記念館に展示されている絵画。
(左)「どうしたらいいだろうか」と相談している場面。( 右)神社に集結した農民。これからを想い決意を固める図。
椋(むく)神社に集結し、高利貸しを焼き討ちした。神社で、地元の研究者から説明を受ける。「この事件を今にどう生かすかが大切です」と説明した秩父事件の研究者。一同深く感銘し、決意を新たにする。

時の明治政府は、農民蜂起に慌てふためき、残党探しや残された困民党の党員たちに苛烈な取り調べや拷問を加え世には「逆賊」「暴徒」として徹底的に弾圧。

関わった農民の家族に至るまで、厳しい弾圧を加えます。ですからこの蜂起に関わった本人、家族は息をひそめて暮らしてきたといいます。

この事件が、農民による正統な「生活救済の蜂起/一揆」であったことは、昭和時代になって秩父市の市会議員の手によって検証され、光が当たったことで、評価が変わり、「暴徒」から「秩父事件」へと呼び名も変わり、こうして記念館もできたとのこと。
会計係として追われた井上伝三氏が、北海道に逃げ延び、死の間際に「秩父事件にかかわっていたこと」を語ったという写真も展示されていた。

訪れた秩父は山深い寒村で、耕地は狭く、田んぼや畑はほとんど見受けられず、かろうじて桑が栽培できたとの事。
明治時代は生糸が外貨を稼ぐ主要な産業で、それが世界恐慌で暴落しては、暮らしていかれなかったことがよくわかりました。
いつの時代も国策に翻弄される農民の暮らしがあります。
窮乏したからと言って何の救済策をとらないことも同じです。